思春期に震災に遭った若者たちの言葉
現在、学校に行かないという選択をしている子どもは少数派。不登校状態や茶パツにピアスをつけるだけでも問題視されることが多いです。こうした選択をしている子どもたちも、社会に対する明確な意見を持っています。その意見には世の中の子どもの環境を改善するきっかけが多くあるのです。それにも関わらず、その声に耳を傾ける大人が少ないのも現状です。真面目に学校に行っている子どもの意見だけを取り入れる社会で本当にいいのでしょうか。今回はそんな少数派の言葉を聞くための席を企画をしました。
これは思春期に震災に遭った若者たちの言葉の記録です。
大人は恐ろしい体験を言葉で表現し、心を整理していくことができます。子どもは言葉で表現することが難しく、かわりに遊びの中で表現し、心を整理していきます。では、大人と子どもの挟間の若者、言葉で表現したくても大人がまともに取り合ってくれない場合、その者たちはどうしたらいいのでしょう。当時16 歳と19 歳だった2人の若者が当時の体験を言葉にしてくれました。
「津波から逃げてる時にさ、目の前でリアカー引いてる人がいて、まさか90ぐらいの婆ちゃんが乗ってると思わなくてさ。…何人か引っ張って助けたけども、波が来て目の前で親子が波にさらわれてさ、親は即死だった。子どもは遠くの方に流されて沈んじまって。」
若者は堰を切ったかのように唐突に話し始めました。普段、震災のことは思い出したくないと言って、話したところは見たことがありませんでした。直前まで他愛ない話をしながら焼き肉を食べていましたが、彼の話したいタイミングが来たようです。
「家流されて避難所に逃げたんだけど、食糧が少ないんだよ。小さいおにぎりが配られて4分の1に分けて、おれの分もカノジョにあげて、おれはその辺からひろって食べた。
でも家が流されてないやつの方が大変だったと思うよ」
当時16歳だった若者が話す隣で、当時19歳、自宅が津波で流されなかった若者がうなずきながら聞いていました。家が被災を免れた者は避難所に入らず自宅に居ましたが、支援物資は避難所が優先され、自宅避難者には届きにくい状態でした。
「電気・ガス・水道止まってるし、冷蔵庫止まってるし、家あるやつにも物資をまわした方がいいんじゃない?って避難所のやつらにおれ言ったよ。それでもそうしないから、おれらが貰う物資を家に届けたりもした。あとから、あの時は本当に助かったって言われた。おれもさ、国からお金おりて物資も届いて、助かったって思ったけど…家残ったやつの方がつらいよ」
その状況は仮設住宅が建てられてからも続いたようです。それまでうなずくだけだった当時19歳の若者が、突然声を発しました。
「ひいきだよ。仮設の方が裕福だ。家を流された人たちはお金がおりて、物資ももらえて、いろんな支援があったけど、おれ達みたいに、家の被害もなくて助かってるヤツらにはなんもなかった」
震災直後に在宅の人は物資配給の時には肩身が狭く、まわりの家が流された友人知人はいい車を買ったり、若くして家を建てたりする様子を目の当たりにして、震災後の支援による格差の広がりにやりきれなさを感じていました。
当時16歳だった若者が、「そういうの頭に来て、直管で反抗したのさ」と続けました。直管とは、バイクや車の改造方法で、走ると爆音がなります。彼らも「たしかに迷惑だな、おれらは慣れてるけど」と言うほどの爆音です。
しかし震災以前から素行が悪いことや、不登校などで、大人に分かってもらえない気持ちを抱えてきた彼ら。そして災害時、命のかかった場面で目の当たりにした世間の理不尽。やりきれない気持ちを聞いてくれる者もおらず、爆音で表現するしかなかったのでしょう。
若者は照れ隠しのように笑って、こう言いました。
「でもさ、ヘンな車がいたら町が盛り上がるじゃん!若者をもっと盛り上げたいじゃん!」
自らも憧れて乗り始めた車。「この町にも若者が生きている」という全力の表現と同時に、自分たちのように地域で肩身の狭い思いで過ごしている若者たちにも「楽しいこともっとあるぜ!!!」と伝えるため、今も走り続けています。
その爆音や正直な態度から、大人たちからは遠ざけられることもあります。
「後輩の責任負わなきゃいけなくなって、避難所から出ていけって言われたこともあってさ。おれ避難所出て、海のそばで過ごしたよ。またいつ津波が来るかも分からないし、何人も死んでるからすげぇ怖かったんだけど。寝られそうなところがあって、3日くらいそこで過ごした。それから避難所に戻ってみたら、心配したんだぞって言われて、マキ割りをさせられた。」
16歳で一人過ごす被災地の夜は想像をはるかに超える恐怖があったのではないでしょうか。それでも避難所に戻らなかった理由もあるのだと思います。なにより問題なのは、彼らの声に耳を傾ける地域の大人がほとんど居なかったことです。
震災後友達に誘われた当時16歳の彼は、子どもの心のケアを目的とした子どもの遊び場を訪れ、プレーワーカーズの神林に出会いました。その時のことを思い出して彼は「開放感があった」と言います。きちんと話を聴いてくれる相手に出会い、自分を認めてくれる存在に会うため、その後もこの遊び場をよく訪れるようになりました。
次第に遊び場の仕事を手伝うようにもなり、手伝いながらも自分が認められていく心地よさを感じていたのだと思います。そして、友人を連れてくるようにもなりました。それは同じように誰かに認めてもらいたい気持ちを感じたから、神林に会わせるために連れて来たのでしょう。そんな日々を経て、遊び場という自分の居場所を手に入れていきました。
神林のしたことは、話をきくこと。しかしそれまで彼らの世界を渦巻いていたのは誰にも認められない閉塞感でした。誰にも認められず生きている、それは震災と同じくらい辛い日々だったのではないかと思います。あれから5年経っても、彼らは呼ばれれば休みをとって手伝いをしてくれます。
この夜、10代までの閉塞感を吐き尽した若者たちは、満足したようにに酒を飲んでいました。
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