アソビのタネ

子どもがいるならどこでも「もっと楽しく」「もっとのびのびと」「もっと安心して」いられる現場づくりでの実践を記していきます。

LAZOの意味から考える

 

以前のブログ記事『遊ぶ場所がないから、自分たちでつくりたい』の続きとなります。

 

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【LAZO倶楽部】

水明町の河川敷で、遊ぶ場所を自分たちでつくる活動をしている住吉中学1年生5人組。彼女たちは自分たち5人の会に『LAZO倶楽部』という名前をつけました。

 

 

LAZOは「ラソ」と読み、スペイン語で「絆」を意味するのだそうです。絆を意味する他言語を調べていたところ、スペイン語の「ひびき」が気に入ったから決めたのだといいます。好きな言葉を探し、それを見つけたときには喜びがあります。ぼく自身も、中学生のころ「ソラリス」「エルサレム」「オメガ」「波動存在」「永久機関」などといった言葉を意味もわからず何だかカッコイイと感じて、見つけてはメモを取っていた記憶があります。

彼女たちもLAZOという言葉を発見し、その語感・表記のお洒落さ、目新しさに満足しているように見えました。

 

世代が違ったとしても、「子ども時代」を比べれば、変わらないところもたくさんあるのだと思います。

 

ただ、なぜ「絆」なのだろう。

 

数限りなくある言葉の中から「絆」を足がかりに言葉を探したのはいったいどうしてなのか訊いてみました。すると

 

「絆ってなんかいいじゃん、それに、みんなにもよくわかるでしょ?」と言いました。

 

その返答に、違和感を感じてしまいました。

いったい、この違和感はどこからきたのか考えました。

 

 

【子どもの言葉に気を留める】

「絆」が「みんな」にもわかる言葉だというのは理解できます。震災後はメディアでもよく使われ、キャンペーンなどでも「絆」を冠したタイトルをよく見かけるし、2011年には流行語大賞にもノミネートされた、なじみのある言葉となっているからです。

しかし、ぼく個人としてはいい言葉だと感じたことがありませんでした。

絆とは、個人が望む望まないに関わらず、自然と結ばされてしまう関係性だと考えていたからです。家族や学校、職場や地域とともに過ごしていると、好き嫌いでは決められない人間関係が生じる。それはときには心地よいものであり、ときにはわずらわしくも感じるものです。

それでも、人と人は絆、つまり誰かとつながりを持たずに生活していくことはできないことはわかります。そして、地域コミュニティの希薄化が叫ばれて久しい現在では、その必要性を誰しもが考えていることは自明です。

 

しかし、絆をいいものだと思う社会はどこかおかしいと感じてしまいます。絆なんかなくなればいいと思っているわけではありません。むしろ、絆など求めなくても自然と結ばれてしまう社会が普通であって欲しいと思っているのです。絆を大切にしようと言う社会ではなく、絆にしばられない自由さを叫ぶ社会の方が個人的には好きです。

 

 

【子どもの言葉から自分を振り返る】

そんなことを考えている時に、プレーワーカーズ代表理事ぶんちゃ(須永)が以前言っていたことを思い出しました。

 

「最近は、ボランティアをしたいと言う人がなんでこんなに多いんだ」

 

こう言っているのを聞いたときに、戸惑ってしまいました。僕自身、大学生時代はボランティアサークルと呼ばれるところで活動を行い、それを漠然と「いいもの」だと感じていたからです。だから、大学時代の就職活動の履歴書にもボランティア経験を「立派」に記入していました。それは、ボランティアしている人間は「立派」でしょ、と言っているようなものでした。ボランティア経験の有無ではなく、どんな活動をしてきたのかが重要であるにもかかわらず。

 

このような倒錯は自分の中でどの段階で目覚めたものなのか。

 

ボランティアに注目が集まったきっかけは、阪神・淡路大震災のときといわれています。三ヶ月間で、日本中から延べ117万人以上が被災地での支援活動を行ったと記録されています。ゆえに1995年は「ボランティア元年」だとされています。当時、テレビの画面越しに、ボランティア活動をしている人たちの姿をおぼろげながら今でも覚えています。

 

その1995年、僕は小学校1年生でした。

そして東日本大震災があった2011年、LAZO倶楽部の子どもたちもまた小学校1年生でした。

 

 

【子ども時代を見つめる】

この符合に深い意味はありません。けれども、ぼくがボランティアを漠然と「いいもの」だと感じ育ってきたように、LAZO倶楽部のメンバーもまた、絆を漠然と「いいもの」だと感じこれから育っていくのかもしれません。そこまで考えたときに、LAZO倶楽部のメンバーや今の子どもたちが自分とは違った「子ども時代」を生きていることにあらためて想像がおよびました。自分とは違う、それぞれ唯一の経験をしていることを。

 

いまの子どもたちが過ごす「子ども時代」と、自分たち大人もかつて過ごした「子ども時代」。その風景は違っても、根底には同じものがある。何かに興味を持ったり、喜んだり、悲しんだり、そういった感覚・経験が子どもを育てていく。

今を生きる子どもの、「子ども時代」にかかわること、その重みを日々問い直していこうと思います。